悪しき考古学について
規範はどこで生き、どこで失われるのか
中学生の頃、校舎の窓から下にいる友人に声をかけたことがあります。 その際、近くにいた年配の女性から「失礼だ」と注意を受けました。
当時は反発心しかありませんでしたが、今振り返ると、この出来事には考える価値のある示唆が含まれていたように思います。 それは「その行為が失礼だったかどうか」ではなく、そもそも失礼とは何によって決まるのか、という点です。
失礼は固定された性質ではない
同じ行為であっても、時代や状況が変われば評価は変わります。 かつては問題視された振る舞いが、現在では特に咎められない、という例は少なくありません。
これは、行為そのものが変わったというよりも、それを評価する規範の運用主体が変化したと考える方が自然でしょう。
礼儀や慣習は、自然法のように普遍的に存在するものではありません。 社会の中で共有され、運用されてはじめて意味を持つものです。 誰が、どのような文脈で、それを「失礼だ」と判断するのか。 そこにのみ、規範の実体があるのだと思われます。
規範の力は使われ方に依存する
ある世代が「それは失礼ではない」と感じ、そう振る舞い、それが特に問題とされなくなったとき、その規範はすでに実効性を失いつつあります。
このとき、「昔は違った」「本来はこういう意味だった」と説明することは可能です。 しかしそれは、背景を理解する助けにはなっても、現在の行為を非難する根拠にはなりにくいでしょう。
規範を行使する側、つまり注意したり正しさを主張したりする側には、 その規範が今も有効であるかを問い直す責任があります。 一方で、それに従わない側にまで説明責任を求めるのは、少し無理があるように思われます。
「悪しき考古学」
私は、現在の運用を無視し、過去の定義だけを根拠に断罪を行う態度を、便宜的に「悪しき考古学」と呼んでいます。
それは、
- 現在の言語使用
- 話者の意図
- 実際の受け取られ方
を顧みず、 過去の語源や制度的背景を掘り起こして、 現在の行為者に否定的な意味を割り当てる行為です。
たとえば、「奥さん」という呼び方をめぐる議論は、この問題を考える材料になるでしょう。 現代の日本語運用において、「奥さん」は多くの場合、 丁寧で中立的な配偶者の呼称として使われており、 話者にも聞き手にも、差別的な意図はほとんど見られません。 それにもかかわらず、過去の家制度や語源を根拠に、 現在の使用を一律に問題視することには、慎重さが求められるように思います。
意図は現在の文脈に属する
意図とは、本来、その行為がなされた時点の主体の認識に属するものです。 それを歴史的背景から逆算して断定することは、 当人の説明や文脈を無効化してしまう危険があります。
このようなやり方は、運用の改善や相互理解につながりにくく、 結果として対立や萎縮を生むことも少なくありません。
伝統が続くために必要なこと
若い世代の振る舞いを、最初から「誤り」と前提してしまえば、 そこに対話や継承は生まれにくくなります。
伝統や規範が生き延びるためには、
- 問い直され
- 調整され
- それでもなお使われ続けること
が必要ではないでしょうか。
規範は、尊敬されるから残るのではなく、 実際に使われ続けるから残るのだと思います。
おわりに
現在の実践を見ずに、過去だけを根拠に対立を生むことは、 必ずしも建設的とは言えません。
私たちが注目すべきなのは、「本来どうであったか」だけではなく、 「今、どのように使われているか」ではないでしょうか。
その視点を失わないことが、 規範を対立の道具ではなく、共存のための知恵として保つことにつながるように思われます。