なぜ1時間は60分なのか
原因と解釈の転倒
人はしばしば「なぜそうなのか」と問う。例えば「なぜ1時間は60分なのか」という問いは、面接試験などでよく見かける。多くの場合、この問いには歴史的あるいは数学的な説明が期待されている。古代メソポタミアの六十進法に由来し、60という数は約数が多く分割に便利だからだ、といった具合である。
しかし、この問いを真面目に考えると、少し別の方向へ思考が進む。そもそも「なぜそうなのか」という問い自体が、ある前提を含んでいる。すなわち、そこには何らかの合理的理由が存在するはずだ、という前提である。人間は制度や習慣に遭遇すると、それが合理的に設計された結果だと考えがちである。
だが現実には、多くの制度は合理性から生まれたわけではない。歴史の中で生まれ、偶然や慣習の積み重ねによって残っただけのものが多い。時間の六十進法もその一例に過ぎない。なぜ60なのかという問いは、自然の性質を尋ねているように見えるが、実際には人間が採用した表記法の歴史を尋ねているだけである。
このような転倒は様々な場所で起こる。英語が国際語になったのは、英語という言語が特別に合理的だからではない。政治や経済の歴史の結果として広まったに過ぎない。それでも人は「英語は簡単だから広まったのだ」といった説明を付け加えたがる。
進化についての理解でも同じ誤解が見られる。生物は何かの目的のために進化したのではない。単に淘汰されなかった形質が残っただけである。人間の尾骶骨に特別な生存戦略があるわけではない。それは祖先の形質の名残として残存しているに過ぎない。
こうして見ると、多くの現象は目的ではなく因果によって説明される。目的が成立するのは、問題を解決しようとする主体が存在するときだけである。創造者や設計者がいる場合には「何のために」という問いが意味を持つ。しかし自然や社会制度に対して同じ問いを適用すると、しばしば説明と原因が混同される。
文化や制度を考えるときには、むしろ淘汰という視点が有効である。ある習慣が残っているのは、それが最も合理的だからではない。単に淘汰されなかったからである。習慣は慣性を持ち、一度広く定着すると変更には大きなコストが伴う。だから多くの制度は合理性ではなく、歴史的経路と社会的慣性によって維持される。
ここから得られる教訓は単純である。長く続いている習慣に、必ずしも合理性があるとは限らない。だからこそ、習慣に対して懐疑的になる姿勢も必要である。
もっとも、その懐疑そのものもまた淘汰の対象になる。社会が安定しているときには、習慣に従う態度の方が有利であり、疑問を投げかける態度は広まりにくい。結局のところ、合理性を重んじる思想でさえ、社会の中で生き残れるかどうかは淘汰に依存している。
世界は必ずしも合理的に設計されているわけではない。多くの制度や習慣は、因果と偶然、そして淘汰の結果として残っている。人間はそこに意味や合理性を読み込もうとするが、それはしばしば後から付け加えられた解釈に過ぎないのである。